若松寺についてAbout us

開山1300年

「鈴立山若松寺」は今から約1300年前、奈良時代の和銅元年(西暦708年)に行基菩薩が開山した霊場です。

その後、平安時代の貞観二年(同860年)山寺の立石寺を開山された慈覚大師(円仁和尚)が当山の山頂付近にあった御堂を現在の地に移し、 造営工事をし大規模な伽藍配置をしました。

この時期に奈良仏教の法相宗から平安仏教の天台宗となり、開山が行基菩薩、中興の祖が慈覚大師として祀られています。

室町時代には西国の観音巡礼信仰が東国にも普及し、最上三十三観音札所の第一番に位置づけられており、現在も毎年多数の巡礼者が訪れています。

江戸時代には観音堂を大改修し、三代将軍徳川家光が御朱印として保証しています。

当寺は「縁結び」観音としても知られているほか、旧正月7日に行われる「鬼やらい」は「色力安穏」という人間の本願を祈念する行事として有名です。

平成20年(西暦2008年)に開山1300年祭を迎えました。

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鈴立山 若松寺境内案内

  • 若松寺本坊

    回向、祈願道場、ご朱印、お札、お守の授与所でもあります。

  • 奥の院(弁財天)

    学問や芸術の女神で、「弁天さま」としてよく知られています。 七福神の一つに数えられるようになった室町時代以降には、言語、学問、知識、音楽、そして福財や戦闘神としても信仰されてきました。奥の院に祀られています。

  • 地蔵堂(子育て地蔵)

    通称「お地蔵さま」。一般には、道端の石仏としても多く見られます。若松寺の地蔵は子育てがテーマ。 地蔵堂に祀られており、よく見ると子供を抱いているのがわかります。「子育て絵馬」の奉納もできます。

  • 元三大師堂

    天台宗中興の祖と称される良源のこと。寛和元年(985年)正月三日に没したのでこの名がついたと言います。 正月に門口に貼る「元三大師」と書いた札は、厄除けのために鬼の姿に化した大師自身を表しており、角を生やした姿から「角大師」ともいわれます。 この札は若松寺本坊で常時頒布しています。また、大師はおみくじの元祖と言われています。元三大師堂は観音堂の東側にあります。

  • 縁福大風鈴

    今から1300年前、この地を訪れた行基菩薩が、鈴の音に誘われて山に分け入り、寺を開いたという言い伝えがあります。 昔から縁結びの観音さまとして多くの人々に親しまれ、信仰を集めてきた若松観音。良縁と幸福の願いを込めて、どうぞこの風鈴をお二人でご一緒に鳴らしてください。 一人で鳴らしてもご利益は同じです。

    鳴らし方:紐を持って、ゆっくり3回鳴らし、心静かに合掌。

  • 鐘楼堂

    鐘楼堂から見た風景です。

  • 三十三観音分霊

    夏になるとまた違った雰囲気になります。

―最上札所の第一番霊場―文化財

  • 国指定重要文化財 若松寺観音堂

    室町時代に建立したとされる「観音堂」は、慶長年間に山形城主の最上義光が大改修したあと、文部省が昭和41~43年にかけて解体修理を行った五間四方で単層(平屋)入母屋造り銅板葺きの御堂である。
    奈良や京都の寺院の多くはヒノキやケヤキを主材料にしているが、義光は山形の最上地方に多いブナ材を主材料にして解体作業を行った。

    建築学的にみて建造物には不向きといわれるブナ材を基調にしている当観音堂は、全国的にも珍しい御堂といえる。内部構造は中敷居に格子戸をはめ、上部に菱欄間を入れて内外陣を区画し、内陣には須弥壇を設けて厨子を安置する形で、東北地方における密教本堂の遺構として貴重なものである。なお、観音堂内部に残っている落書きは、主に江戸期のものと思われるが、当時の参拝者が書いたもので、最上札所の第一番霊場として、また諸願成就の祈願寺として当山がいかに多くの人々に親しまれたかを物語る貴重な資料となっている。

  • 国指定重要文化財 板絵著色神馬図

    山形県・寒河江(さがえ)の大江氏の支族である郷目右京進貞繁が永禄六年(西暦1563年)に亡き妻の菩提を弔うために自ら描いて奉納したもの。貞繁の作品は現在二十数点が知られているが、彼は特に馬の絵に優れ、中でもこの作品は最高傑作である。躍動感にあふれる馬の姿は、その力量の程と亡き妻への想いの深さを表している。大絵馬としては全国でも有数の古い作品で、桂板5枚を継ぎ合わせた横182.5cm 縦163cmの大板絵である。

  • 国指定重要文化財 金銅聖観音像懸仏

    金銅聖観音像懸仏(こんどうしょうかんのんぞうかけぼとけ)は別名を御正体(みしょうたい)ともいう。昔、鏡として作られた銅製の円盤に神仏像を鋳造したもので、内陣に掛けて拝んだ。通常は直径約20センチ程度のものが多いが、当山のものは直径75センチ・重さ60キログラムもある大型の懸仏である。弘長三年(西暦1263年)に作られ、奉納したもので、その秀麗なお姿は鎌倉期の懸仏の最高峰に位置するものである。奉納当時は全面に鍍金(金メッキ)が施されていたと思われるが、現在ではその大部分が剥落してわずかに仏のお顔や台座の連弁の部分に残っている程度である。

  • 山形県指定文化財 納札及び巡礼札

    室町時代後期の延徳(えんとく)4年(1492年)から永禄(えいろく)6年(1563年)までの巡礼札。

  • 天童市指定文化財 木造行基菩薩坐像

    この像は若松寺の開山、行基菩薩の像と伝えられ、鎌倉時代の作と言われる。桂材の一本造りで、内刳りがなく重い。

  • 若松寺 三文殊

    ■文殊菩薩坐像(聖僧文殊)

    円頂、白毫相[びゃくごうそう]、彫眼、三道、耳朶[じだ]貫通、内衣、法衣、を着け、袈裟を着ける。袈裟は左肩に被い右脇を通り、左胸のところで環で吊り左前にかかる。右肩に覆肩衣のような衣を着けるがその端は垂下しない。左手は前に上げ、右手は膝の上に置く。像背面に次の墨書銘がある。

    文明11年乙亥6月17日 造了/ 鈴立山 若松寺 / 食堂[じき どう]本尊
    文殊菩薩尊像一躰 / 当座主 賢海 / 当別当 慶尊 / 願主 貞慶、良尊

    これらにより本尊は文明11年に(1479年)に食堂本尊として製作された文殊菩薩像であることがわかる。

    ■文殊菩薩坐像

    観音堂外陣向かって左に安置され、自由に参拝出来一番親しまれている文殊菩薩である。

    ■文殊菩薩坐像 獅子

    獅子の背に乗る蓮台上に座すいわゆる文殊騎獅像である。髻を結い上げ、天冠台を彫出する。
    彫眼、三道彫出、耳朶不貫、内衣、衲衣、裙を着ける、両手を前にだし右足を上にして結跏趺座する。
    獅子背中に敷物を表わし、その上に別材の円柱状の軸と蓮台を載せる獅子である。
    正面やや上方を向いて開口する、頂に大小数個の宝珠と巻髪を表わし、背中には総髪の筋を数本あらわす。
    頭部を大きく作り肢も太くそれなりの力強さを感じさせる像である。しかし相貌はおとなしく愛玩性を感じさせ、姿勢も胸の張りを見せての強調性は減退している。
    頭部の形は四角い箱型となり、鼻先も丸みがなくなり扁平となっている。巻髪、総髪の彫りは柔らかさを感じさせるものの、髪束の数そのものは少なくなる。頭体部を横一材とする構造も古作では例がない、これらから製作は室町時代に入ってからのものと思われる。

  • 天童市指定文化財 木造不動明王立像

    大日如来の命を受けて行動する。最も威力があり、功徳も大きい明王で、通称は「お不動さま」。修行する者を護る役割があるという。
    怖い顔をしているのは、我が子を見つめる父親としての慈しみ=外面は厳しくても内心で慈しむ、父愛の姿を表現したものであるとも言われている。
    観音堂陣内に祀られている。

  • 天童市指定文化財 木造狛犬

    鎌倉時代前期作で、桂材の一木造。
    県内では最も古く、唐獅子になりきらない和獅子の形を残した貴重なもの。観音堂陣内に祀られている。

  • 賓頭廬尊者 びんずるそんじゃ

    お釈迦様の偉い弟子で、十六羅漢のひとり。親しみを込めて「おびんずる様」、「撫で仏」とも呼ばれている。神通力は第一で、昔からおびんずる様の体を触り、その手で自分の体を撫でると病気が治り、頭も良くなり、節々の痛みも軽くなるといわれ、深く信仰されてきました。お酒が好きな仏様(体が赤いのもそのせい?)で、天童の地酒を奉納すれば、ご利益が大きいかも…。観音堂内の下陣に祀られています。

  • 倶利伽羅不動明王像

    不動明王のシンボル倶利伽羅剣にまといつき、剣を呑み込もうとする竜の姿として表現される。
    竜王信仰は水と結びついており、本尊も昭和十年代までは旱魃時に近郊の人々が借り出し、古参道沿いにある雨乞沢に下した水をかけて降雨を祈ったという、 倶利伽羅竜王像は普通、岩のうえに立つ形で表現されるが、本尊はオコゼと思われる魚の上に立っており、きわめて特異な形を呈する。

鈴立山
若松寺風景

  • 稚松公園からの展望

    天気の良い日は絶景です。

鈴立山 若松寺
こちらでも参拝できます

  • こちらでも参拝できます

    観音堂の模型がパルテ2階(JR天童駅)に展示されています。若松寺までこられない方は参拝して下さい。